昭和47年7月19日 朝の御理解
中村良一
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
御道の信心によって、いわゆる、病気災難の根が切れるまでの、おかげを頂いて、懇々と湧きいずる、泉のようなおかげを頂き続けたいと思います。
昨日は、私共、朝からの御祈念を終わらせていただいて、佐世保のほうへ参りまして、まぁ、大変おかげを頂いて、こちらの話も、向こうの意見も、よく出来まして、本当に、まぁ、有難い話し合いが出来ました。それで、帰りに、ちょうど、伊万里の武内先生のところの横を通らせてもらいますから、あそこへ、ちょっと、寄せて頂きました。まぁ、突然のことですから、びっくりして、もう、大変喜ばれましてからね。もう、大変、色々、お世話になって帰ってまいりましたけれども。本当に、帰る車の中で、何人の先生方と話して帰ってきたんですけれども。本当にあの、御道の信心を頂いておる者の家庭というものはね。もう、その、家の隅々にまでね、満ち溢れておるという感じですよ。もう、本当にあの、今日の御理解を頂きますと、もう、本当に御道の信心、お婆ちゃまの、長い信心、そして、先生方の、まぁ、家族を挙げての、あぁした信心が、ははぁ、金光様のご信心を、続けていただいていけば、こういうおかげが受けられるんだなという、一つの見本を、そこに見るようなね、気が致しました。もう、本当に、もう、私、すぐ御神前ににでらせて頂いて、もう、赤々とご神灯が、霊神様の前にも、神様の前にも点いておりますね。だから、一段こちらの、神様、霊神様、そして、まぁ、御結界と言う意味でしょうかね、あの、私の写真が、紫の座布団の上に、こう据えて。そしてそこに、お茶のお供えが、何時もですけども、チャットしてございました。お供えが、何か、お祭りか何かあった後のように、綺麗にあの、してございましてね。もう、本当にあの、神様も、どんなにかね、お喜びじゃろうと思う感じです。
これはね、あの、良くあの、ご信者さんのうちに参りましてから、本当にあの、淋しい思いをすることは、ようあがしこ、日参もして、お参りもしてから、しとりなさるばってんが、もう、突然どん参りますと、お神様のほうはもう、てんで、もう、掃除も出来とらんちいうお家があるですよ。ね。例えば、お掃除が出来る、出来んじゃないけれども。その、本当にその、隅々にね。その、信心になっておられる、その、いわば、金光様のご信者振りというものがね、家全体から感じられるという事なんです。なるほど、何時も、神様がご中心であるなぁという事なんです。ね。そして、もう、求めて求めてやまないもの、その神様の前には、小さい台がありましてから、あの、テープレコーダーがこうあって、紫の袱紗がかけてあります。テープが置いてある。誰でも、お参りをさせて頂いたら、みんなが頂かれるように、毎朝、朝の御祈念の後に、みんなで頂かれるという事でございますけれども。本当、こう、袱紗がかけてあってね。それがもう、私共が、今日、何時参りますという時には、やっぱ、してありますが、やっぱ、そうじゃない、常時にそうしてあるという事です。もう、こんなに有難い思いをすることはありませんね。自分の一番大事なものを大事にされておるという感じですから。なるほど、おかげを受けていかれる方達は違うと、言うてまぁ、車の中で、しきりにその、話してきた事です。ね。せっかく信心させてもらうなら、もう、家の隅々にね、神様の、一つの御威徳というか、ゴヒレイが、もう、輝いておるような感じがね、受けられるくらいな神様は、頂きたいですね。神様を尊ぶと言うても、と、こう言うけれどもです。ね。その、家の隅々に、尊んでおる印が見えるような、私は、家庭でなからなければいけないと思うですね。
その上、神様を尊ぶと言うだけではない。武内先生の、あぁしたご信心が、それこそ、求めて求めてやまない、いうならば、求道心とでも申しますかね。そういう信心が、それこそ、もう、全国で、偉い先生がおられると言う教会。有難いお話やらも、沢山聞かれたけれども、なんかその、ぴったりと来るものがない。そういう時に、当時の椛目を知られて、そして、もう、本当に、一家を挙げて帰依され、いうならば、いよいよ、神様を尊ぶという事が、もう、全てのこと、いわゆる、事柄、ね。御物、もう全てが、尊ばれておるという感じですね。もう、私は、驚きました事は、お婆ちゃまが、丹精して作られたっていう、昨日あの、盆栽を木の根のそれに、あの、蘭とか、あの、南天とかね、色々なものを植えて、まぁ、年寄りが作られるのですから、まぁ、いうなら、暇に任せてと言う様な事で、その、丹念振りというかね。庭木でも、もう、カイガラムシが一杯ついとったのを、一つ一つあの、かみそりで削り取ってから、もう、一杯もう、青々とその、庭に木かね、しこっておる、その手を入れられておるのがもう、ひと葉、一枝にね、感じられるんです。ね。それもう、本当にあの、お手洗いを借らせて頂きましたが、んー、洗面所も借らせて頂きましたが、もう、本当にあの、その、なんちいうかね、思いが込められてある。それが、感じられるんです。今日は、親先生が見えるから、さぁ、どこでんここでん、くまなくお掃除しとかんならんばいと、それとは違うわけですよね。常日頃が、そういうその、もう、何事も、信心になれよと言うその、信心になられておる上にです。いうなら、合楽で言われておるところの、成り行きを大事にさせていただき、御事柄を大事にさせていただくと言うのですから、もう、いわゆる、ご信心振りというものが、そこに、いよいよ、ね。おかげはもう、限りないおかげに、いうならば、懇々と尽きぬおかげを受けておられると言う感じが致します。ね。
そこでその、私共は、信心を頂いておるから、油断を作ってはならぬ。隙を作ってはならないと。だから、あぁいう様な生き方からなら、なかなか、その、油断やら、慢心が、まぁ、出難いと思うですね。あれがね、例えばあの、神様をお粗末にするとか、何事にも、その、いろんな事が、粗末になっておったらですね。もう、それが、当たり前のようになって、もう、そういう隙からでも、おかげを落としますね。けれども、それが、例えば、そういう、一部屋、一部屋にというても良いけれども、そこに、乱れたものがあってはならん。それが、信心だと言うような、例えば、頂き方してあるのでしょうから、例えば、すぐ分かるわけですね。自分の心の状態というものが、ね。心が乱れるところから、あれが乱れたり、これがお粗末になったり、実意丁寧を欠くことになって、おかげを落とすことになるのですからね。そういう、例えば、隙を作らないという事は、難しいことかというと、まぁ、武内先生のお宅から感じられるところを見ると、もう、それが身に付いておられると。そこに、お粗末やら、ご無礼が出来る隙がないと言う感じ。そういう、まぁ、いうなら、生き方というかね、の中から、いよいよ、まめで繁盛するよう、元気な心で、いうならば、信心をしておられると言う感じであります。
私は、今朝から、気持ちの悪いお夢を頂いた。気持ちの悪いと、普通なら、あれは、まぁ、本当に、気持ちの悪い夢でしょうけれども、秋永先生やら、高橋さんやら、昨日の一緒の方、ちょうど、私共は、帰りまして、もう、月次祭が済んだ後でございましたから、あの、裏に入らして頂きましたら、昨日、テレビのお供えを頂いた、私の部屋に。カラーの立派なテレビのお供えが来とります。それで、まぁ、これをちょっと見て下さいと言うので、見せていただいとりましたから、みんな、残っておった方達が、みんな、私の部屋にやってまいりました連中が、夢の中にも、やっぱ、おられるんです。文雄先生もおります。繁雄さんもおられる。高橋さん、秋永先生、それにあの、テレビにあの、トマトジュースのね、トマトジュースの宣伝を、やっておられるお爺さんがおりますが、あの人は、何か、有名人ですね、確かに、あの、何ち言う方でしょうか、あの、飲みすぎたあくる朝などは、ジュースが一番良いち言うて、自分で飲んでおりなさる、あの、コマーシャルやっておられる。そのお爺さんなんですよ。そのお爺さんは、どういう事からじゃったか知れんけれども、私が、殴り殺しておるというお夢でした。それで、それからが、面白かですもん。あら、この人のはめてあるネクタイは、なかなか、洒落たネクタイじゃけんで、私が、そのネクタイを取ってですね。ネクタイピンを取って、文雄さん、こら、あんたにちょうど良かろごたるけん、あんたがはめんのち言うちから、文雄さんにやりよるところですもん。殴り殺してる。そしてもう、殴り殺されたけん、こう、歯痒いち言うごたるふうな、顔で、こう、死んであるとですよね。殴り殺すなんたっちゃもう、本当に、目が覚めて、気持ちの悪かとは、どういう事じゃろうかと思うてですね。それから、また、色々考えさせて頂いたんですけれども。
例えて申しますと、昨日の朝の御理解でしたかね。あの、お互いが、信心によって、力を受けるわけです。ね。ですから、あの、そげん、一生懸命、くらせんやったつもりやったばってんから、あんまり、力が強かもんじゃけん、殴り殺した結果になっとると。ね。あれは、あの、力道山でしたかね、あの、バーかなんか、飲み行っとって、なんかの拍子に、叩いたもんじゃけん、ちゃんと、殴り殺した。あれが、普通のもんが叩いたつなら、例えば、まぁ、卒倒するかぐらいの事でしょうばってんね。けども、本当に、力が強いとじゃけん、そげん一生懸命、ぼんと、こうやったら、それで、ちょうど、殴り殺された。そのお爺さんが、私は、何故あの、お爺さんを、夢の中に使われたかという事を、まだ、分かっておりませんけれどもですね。私が、殴ったら、そこに、ちゃんと、ころっと死んでしもうとりなさる。まぁ、いうなら、私が、少し、他のものよりも、力が、力道山じゃないけれども、強かった。殺そうと思うて殴ったわけじゃないけども、殴り殺しとると、こういう事。しかもその、ネクタイを取って、文雄さん、あんたがはめんね、こら、なかなか洒落とるばい、ネクタイピンも、一緒にこう、やりよるところじゃん。ね。
昔から、人を呪わば穴二つ、という諺がありますよね。人を呪わば穴二つ。本当に、信心させて頂いておるから、そういうものは、ないと思うておっても、やはり、人を憎むとか、あー、ね。まぁ、相手を苦しめると言った様な心ですね。例えば、その、少しばかりでもですね、憎むとか、その、苦しめようといった様な根性という様なものが、ありますとね。それは、力の強い人であれば、強い人であるほどです。そう、大して憎んでおらんごとあっても、その憎みというものが、大変に強い働きをするという事です。ね。力のないものが、憎んだって、大した事はありはしませんよね。あげんとから、憎まれたって、どうんなかち。けれども、力のあるとから憎まれたら、やはり、困りましょう。様に、信心によって、なら、お互いが、ね、なら、合楽で、皆さん、信心の稽古をなさっておられる。ま、武内先生の例を取りましたけれども、そげん迄はありますまいけれども、私は、これは、一つの、合楽の、昨日、武内先生が、一番初めに見えた時に、やっぱりあの、椛目に、当時の椛目にご縁があったという事は、やはり、私的、内容というものを、やっぱり、もって、備えておられるんです。私がが、良いものをもっとら、良いものもある。悪いものをもっとら、悪いものも持っておられる。まぁ、類は類を持って集まると言うから、ね。確かに、そうだと、けれども、武内先生の場合は、合楽の良さと言うものを持っておるとの、もう、(代行の上でしょうねと言うてから、まぁ、車の中で話して来たことでしたけれどね。その、大根おろし的なものを、?)やはり、持っておられる。そういうものが、だから、一つの、おかげの見本として、お互いが、見習わにゃいかんと思うですよね。
例えば、今日の、武内先生ところの、昨日、突然、私が、お尋ねしてから、感じたことを聞いていただいたんですけれども。皆さんも、やっぱり、思い当たられるとこがありはせんかと思う。なるほど、自分達が、まぁだ、まぁだ、おかげ頂かん筈だなぁといったようなものをね。熱心に参りゃおる、お話も頂きおる、けれども、ほんなら、大抵、神様を尊び、大事にしよるごとあるけれどもです。ね。まぁだまぁだ、いわゆる、目の詰まったといった様なものじゃ無いなぁという事をです、感じられた事であろうと思う。ですから、やはり、手本にしなきゃなりません。ね。ですから、皆さん、そういう、例えば、合楽の方達の場合は、なんか、特に、そうしたその、成り行きを大事にするとか。御事柄という事は、いよいよ、神様を、神様の働きそのものを大事にすると言う生き方なのですから。皆さんも、やはり、力を受けておられる。その印には、なら、皆さんでもそうでしょう。本当に、以前の私なら、どげん腹かいたか分からんばってん、腹かかんで済むようになったとか。以前なら、こうするやろうばってん、それをせんで済むという事が有難いと、皆さんが仰るでしょう。と言うことは、もう、すでに、力を受けておられるわけですよ。ね。だから、信心をしておれば、何がなしか、皆さんは、誰よりも、力を受けておられるわけですよ。だから、力の無い者が、憎んだり、ね。ねたんだり、ね。または、その人を、腹の中で、いじめると言ったような心という様なものがです。例えば、もしあるとするなら、あなた方の、そういう思いというものは、非常に、強くね、相手に響いておるという事です。ね。例えば、信心のある人と、無い人はですよ。信心のある人じゃけん、そげなこつは無かろうと言うたっちゃ、やっぱり、真っ青になって、腹を立てたり、真っ青になって、相手を、いわば、憎むような場合があるでしょうが、信心があっても。その、憎むという事は、もう、信心で、力を受けておる者の憎みというものは、もう、大変に、相手を傷つけるです。だから、同じ言葉でもです。信心の無い人が言うた事ならば、さほどに気にもならんけれども。信心のある人から言われたのはもう、大変にその、傷が深いという事です。コリを積ませるでも、同じ事柄であっても、大変にコリをつませるという事です。そこからです、私は、人を呪わば穴二つ、という様に、自分が、なるほど、おかげが受けられんのは、これだけ、プラスになる信心をしながら、このようなマイナスの所があるから、おかげが受けられんのだなという事は、もう、一事が万事にです。思うて見なければいけません。いかに、信心のある者と、無い者の相違という事がね、はっきりしてこなければならないかと、いう事が、まぁ、感じられます。
文雄さんに、私は、ネクタイを、殺した人のネクタイをとってから、やりよるとという、ね。ネクタイピンをやりよる。こら、まぁ、いうなら、私の好きな子供という意味でしょうよ。ね。この人は、確かに、殴り殺したけれども、私は、ほんなら、可愛い子供の首を絞める様な事をです、に、結果は、なっておるという事なんです。ね。私が、愛しておるところの、子供達の、いうならば、首を絞める結果にしかならないという事なんです。私は、その、どういう様なことであろうかとね、その、お夢が。ほんに、人殺しをするごたる心の状態なんて、さらさら、あるとは思われないのにですね。けれども、殴ろうとは思わん。ただ、ほんな、ちょいとばかり腹を立てたちいうごたるこっじゃなかっじゃ、その、腹を立てたとも思わなかったけれども、ちょいと、こう殴ったら、もう、ころっと、死んでしもうちょる。と、いうほどに、私は、もう、力を受けとるという事になる。ね。力道山の、それと同じことじゃもん、ね。普通の者が、叩いたつならば、それこそ、なんでもない、ただ、顔が腫れるぐらいのこっじゃろばってん。力道山が、ちょいと叩いたら、ちゃんと死んでしもうとる。力が違う。ね。ほんなら、そういう事をです、例えば、憎む、例えば、今日は、憎むと言う心に絞りますならですね、憎むといった様な心の状態という様なものが、いかに、私は、綺麗に改まり、取り除かれなければいけないかという事ですよ。私は、八十九、もう、例えば、帰るころには、随分もう、やはり、力も受けておるときだと思いますね。トンオ(十)でしまえると言うような時にも、七分も、八分も、九分もの、溝ざらえが出来たと言うのですから、改まるのも、てーげー、改まったという時なのですから、ね。それでも、まぁだ、濁ったものが出ておるから、あと一分、自分ところを焦点にして、これは、だから、今日は、私、家という事よりも、自分自身のこと。自分自身の井戸ざらえというものがです。本気で、成されなければならない。なされないとです。例えば、私共が、憎む心などという様なものが、少しでも、あるとするならです。それが、相手を憎み、殺すことになったり、傷つけたりするのですから、ね。せっかく、これだけ、プラスになる信心をさせて頂きながら、また、反対に、マイナスになっていきよるから、何時までたっても、この辺の所で、ぐずぐずしとらんならん。いわゆる、懇々と湧いてくるようなおかげになって来ないという事。ね。
何時までたっても、病気災難の根は切れぬと仰るという事は、本当のおかげにならないという事だと、こう思うのです。ね。その為には、一つ、私自身の心の中です、ね。心のなかの、例えば、井戸ざらえというものが、本気でなされなければならない。そして、ほんなら、人をねたんだり、憎んだりするような、こういう心があると、気が付いたら、その心はです。もう、信心のしない、誰彼のよりも、随分、力を持った憎む心ですから、力を頂いておるのですから。これで、例えば、ちょいとでも、腹かいたら、もう、信心の無い者の、それこそ、十倍も、その上も、憎んだことになる訳です。ね。力を受けておる。その力で叩きよるのですから、という様な事をです。分からせて頂いたらです。いよいよ、井戸は、清水になるまでの心の状態というものを、願わなければならないことが分かります。ね。そして、例えば、本当に、良い手本であり、良い例でありますように、武内先生方の例を取りましたが、ね。それこそ、自分の心の隅々、自分の家の、家庭の隅々、ね。の所に、おかげを取り外すところの元が、まぁだまぁだ、こんなに沢山あるという事を分からせて頂いたら、いよいよ、ね。合楽で、信心の稽古をさせていただいておる、その信心振りというものがです、ね。本気で、例えば、自分のお祭りをしておる、お神様の前、いうなら、ご神前にもです、そういう、現われを感じれれるくらいなおかげ、そのくらいな神様の頂き方。尊ばせていただくと言うなら、そのくらい、尊ばせて頂けれるような信心が、欠けておるのですから、そこんところを身に付けていこうとする、行き届いた信心をさせてもらわなければいけないという事になります。
今日は、私の、お夢のことから、そして、昨日、武内先生ところに寄らせて頂いて、まぁ、感じさせて頂いた事を、まぁ、例にして、お話しましたから、この二つの所をね、一つあの、考えさせてもらって、ほんなら、自分達は、まぁだ、力を受けとらんけんというけれども、ほんなら、去年なら、随分、腹かきよったろうけれども、今年は、腹かかんで済むくらいなおかげを頂いたと、ね。例えば、自分のおかげを頂いておる、一つのおかげの後というものを見ると、心の状態のなかから、感じることが出来るでしょう。それだけは、徳を受けて、力を受けておる訳でございますから。受けておるなら、受けておるほど、いよいよ、私共がね、人を呪えば穴二つ、の結果にならんような、おかげを頂かねばならんと思うですね。どうぞ。